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沖雅也 日景忠男 ネハンで待たせる理由とは。。。


昭和58年に自殺した俳優、沖雅也の養父で、覚せい剤取締法違反(使用、所持)罪に問われた無職、日景忠男被告(当時72)の上告審で、最高裁第3小法廷裁判長は日景被告側の上告を棄却する。
懲役1年2月とした1、2審判決が確定した。

沖雅也。
15歳で家出。一家の嘱望にそむいて役者の道へ。その裏で、つねに子を思う尊い父の姿があった。

丹沢山塊から源を発する酒匂川が、相模灘に流れ込む河口の近くに、大経寺という寺がある。小田原市の郊外である。 彼は、その寺の一角にある墓地にいた。ひとつの墓の前に立ちつくして、雨にぬれるのもかまわず、合掌したまま、恐ろしく長い時間、その場所を動かずにいた。

墓碑は、賢徹院剛心宗生居士之墓。俗名楠宗生、昭和50年4月23日没、享年49歳であった。楠宗生は、この彼のかつての父親である。

どれだけの時間がたっただろうか?青年のかたわらで、養父の日景忠男が、「おい、あんまりぬれるとカゼひくぞ」といった。彼は、こっくりと小さくうなづいて目をあけた。

沖雅也の人生は、15歳の正月を境界線にまっぷたつに切り裂かれている。彼は、大分県の大分市で育った。父は、県の石油供給組合の常任理事、理事会の書記長のようなことをやっていたらしい。

楠一族の本家は、北九州市久留米にある。この家系は、九州を代表する名医を何人も輩出させている。祖父は、久留米に楠病院を創設しているし、この病院の跡を継いだのは、彼の叔父である。祖父の弟も、九州帝大医学部の教授であったが、戦争中捕虜になったB29の塔乗員に行った人体実験の責任を問われて、終戦後自殺した。

彼が15歳の年の暮れ、両親は離婚する。姉と妹と彼の3人の子供を残して、母が家を出た。

そして家を出た。ひとりで、正月にもらったお年玉をかき集めて、すでに家を出ている母親に「オレも家出する」と打ち明けたら、いくらかのお金をくれた。
夜。駅まで歩いて、キップを買い列車に乗った。各駅停車。東京いった。

東京ではバーテンをしながら、遊び暮らしていたころ、仲間につれられて、モデル・クラブに行った。今よりは少しはましだろうぐらいの気持ちでついていったらしい。

彼が現在の養父日景忠男に初めて会ったのは、このころのことである。日景は、これが楠の息子か、九州大学医学部教授の孫がなぜこんなところに、と驚いたらしい。
日景自身も、家業が医者で、当然医者になるべきところを、東大の建築科に進み、大学院まで入りながら、”親の金をくすねて、水商売に身をもちくずした道楽者”であった。

モデルになると、最初の3ヶ月くらいは、報酬なしで働かされる。日景忠男の家に転がり込んで、彼は、すさんだ日々を送りはじめた。青山や赤坂のゴーゴークラブに入り浸って、毎朝、4時5時に家に帰ったらしい。

彼が日景に説得され、はじめて父親に会ったのは、18歳のときである。
「よく斬れる刀は、人を斬らないうちが花なのだ。おまえも、この言葉を忘れるな」
父も子に、この言葉を伝えた。

ホテルに残された遺書
 「今・・・
プラザホテル様へ 大変申し訳なく、お許し下さいませ。
つかこうへい様 あなたの名、つかを使いし僕をゆるせるものならおゆるし下さい。
人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。
若さも、健康も生きていることもどんな意味があるというのか。
人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。
老いと病と死とを超えた人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることが正しいものを求めることと思うが、今の私は誤ったものの方を求めている者
おやじ、涅槃でまっている。」

「故沖雅也さんはいつから男色の道にハマったのですか?」

ゲイなのはあくまで日景さんであって、沖さんは別にホモでもなんでもない。
ただ、沖さんは異性に対し、かなり高望み(母との問題もあり)というか理想主義的なところがあった。
ゆえに自身が思い描く恋愛や結婚と、現実のそれのギャップを埋めきれなかった。いきおい浮いたハナシが少ないどころか、ほぼ皆無。
そこで女嫌いイコールホモセクシャルと、短絡的に結び付けられてしまい、日景忠男さんとのこもあり、このイメージが一人歩きしてしまった。 
実際の沖さんはよくお忍びで吉原へ繰り出していたらしいし、事故で車の運転が出来なくなってからは自宅に、その筋の女性を呼ぶこともあったという。
自殺直前の京王プラザホテルにおける行動がそれを物語る。

百歩譲って沖さんがバイセクシャルであったとしても、それが役者や人間としての沖さんの評価を下げることにはならない。

自身の寿命を30代前半と既定してしまい、それこそ「老いぼれる前にくたばりたい!」と、激しく燃え続けた沖さんの演技の前には、男色か否か? などというスキャンダラスな二元論など、所詮無効である。